『養性訣』綜凡
『養性訣』巻上 五事調和釈義
凡例
(1)変体仮名、片仮名などは、現行のひらがなに改めた。
(2)原文は読点のみだが、文脈から判断し、適宜句点を加えた。
(3)細字は〔〕内に記した。
(4)旧仮名遣いと送り仮名はそのままとし、旧字体や俗字などは原則として新字体に統一した。
(5)底本は京都大学富士川文庫所蔵の天保七年版を用いた。原文との照合の便をはかるため、原文の改ページ箇所を【】内に記した。
綜凡
【綜凡一表】
むかし嵆康といひし人の養生に五つの難きことあるよしを論ぜし。その一には、名聞利欲の去がたき。二つには喜怒の情その度に超る。三には、好色の心深き。四には、滋味の口に絶まなき。五には、一切の事の心にかかりて忘れがたきとなり。もしこの五つのものを胸裡に蘊るときは、いかなる養生の術を行ふとも決して其功なく、かならず病
【綜凡一裏】
苦を招き、中道に夭するか。偶老境に到るとも、心身ともに衰耗て、事用にたちがたし。もし少壮より、強てこの五つのものを去得るときは、その心日日に徳に進を以て、祈ずしておのづから福を得、求めずしてよく寿を延すといへり。これ至當の説なれども、時世を以てこれを論ときは、その言行はれがたきに似たり。いかんとなれば、方今昇平二百余年の久しき、人々佚遊に習ひ、驕楽を常とするときにあたりて、この嵆康が説を示たれば
【綜凡二表】
とて、よく順ひ護ものは少なるべし。今この食眠体息心五事調和の如きは、外よりその心を導き、漸に善に化しめんための教なれば、いはゆる權道にして、行ひやすくまた護やすし。故に予は専これを養生の要訣となして、老幼男女の差別なく常にこれを人に授るがゆえに、かの名聞利欲の心熾なるものに会ても、強てこれを制せんとはせずして、唯その病苦を救ひ得ことを先にし、その人々の便宜に任て、或は和歌もしくは頌文な
【綜凡二裏】
どを称へ、自胸腹を按撫て、気息を調適ることを教へ、或は食後独按摩の法を伝へ、あるひは食眠体息四事の中に於て、其人の為やすく行ひやすきことを授け、強て止ことなからしむれば、腹気漸に安定に従て、その人の精神自ら爽快になり、心身よく調和るにいたれば、天性の真智いつとなく発現て、この嵆康が論ぜし五難をも、終には去得るやうになるものあればなり。これ台家浄土の念佛、日蓮宗の題目を専に称しむるものと、その帰
【綜凡三表】
やや類似たることあり。故にこの編を読ものは、通途養生の書を看るの外に、一活眼を開き、文字の外に深義あることを観得べし。これ作者の本意なり。〔歌をとなへて腹をなづることと、食後ひとりあんまの法は病家こころえ艸にのせたり〕
一養生の道とて、もとより別に口授秘訣あるものにあらず。ただ人と生れ得たる天性を遂るまでのことなれば、かならずこれを外に向ひて求んとすることなかれ。まづ士大夫の専ら心がくべきは、古昔の聖賢の道義を講たる書を読て、人倫
【綜凡三裏】
の大本を知明め、かたはら武藝の嗜みふかく、常にその身を愛嗇し、ただ義のためには命を塵芥よりも軽んじる念を長るが、養生の第一なり。農民は、国主の恩賚にて、安穏に妻孥を撫育ことを、常に忘ることなく、稼穡の事を懈らざるが養生なり。その他、工匠のその職に拙からず。商売の非義の利を貪らざるが如き。これ工商の養生なり。故如何となれば、四民おのおのその分限を知り、謙虚を守り、内に省ていささかも愧ることなければ、
【綜凡四表】
精神おのづから爽快に、気血融通を以て、病を醸造べき、基本となるものあることなければなり。論語に、詩三百、一言以蔽之、曰、思無邪といへり。思に邪なければ、その心かならず爽快なり。心爽快なれば、病はおのづから少し。今またこの養生の道を一言に約ていはば、この思無邪の三字を以ても盡せりとすべし。これその外に向ひて求むべきにあらねばなり。此義は本編に説ところを通暁して、おのづから明かなるべし。
【綜凡四裏】
一孫思邈といひし医士の言に、人体平和ならば、惟須く将養すべし。妄に薬を服ることなかれ。薬勢は偏に助るところあり。人の臓腑をして不平ならしめて、外患を受やすしといへり。世には養生薬とて、預め病を防ぐ術ありといふ。是佞媚の妄言より出るか。左なきは、貪濁の医士に欺かれたるなり。通途養生の書の中にも、偶には預防薬を称誉せしもあれば、有識かならずそれらのために惑さるることなく、ただ養生は天性自然の道に
【綜凡五表】
従ふべきものなることを自悟べし。予が病家須知の中に、多くこれを弁じたれば、参考てその理自ら明かなるべし。
一気息を臍下に充実しむれば、よく百病を除くということ、実にその験あり。今いかなる沈痾癈疾ありといへども、調息術を授て、よく行ひ得るものは、久からずしてかならずその病苦漸に治ること、意外の妙あり。故に予は専らこれを世人に伝へて、横夭を救ふの一助とはするなり。殊近来腹を
【綜凡五裏】
紮て気息を調る捷径の一術を受てより、験を得たる病目を、本編の末に列載し後、またまた左の病者に試て、かたのごとく効を見したるものをも、再び此に挙て、その缺たるを補ふ。世人よく併考て、これを拡充、その他を了べし。
喘哮の経久癒ざるもの。◯内外翳眼にこれを用ひ、潅水をかねて偉効ありしこと。◯懸飲腹痛嘔逆止がたき病者◯傷寒時行病に初中後ともに施して裨益あること。◯痢病の窘迫腹痛甚しきもの。
【綜凡六表】
◯黴毒骨節疼痛、及咽喉潰瘍などの証に施て、よく病苦を和ぐるの効あり。◯婦人の月信不順、及胎子不育に用ひて効を得たること。◯小児の病には、搐搦瘈瘲、及疳疾、遺尿などの証に用て、効あるのみならず、嬰孩よりこの腹帯を常に用ひて止まざれば、よくこれらの証を御ぐに妙なり。
一此編に論ずるところの食眠体息心五事調和は、その詳なること、先に著せる病家須知一名寿艸といふ書に載たるを再釈しものなることは、附言に
【綜凡六裏】
いふがごとくなれば、先病家須知を読て、後にこの編を看るべきこと、もとより論なし。すべてこの五事を調和る極旨は、その耳目の欲を屏けて、外物に誘れて、それに抵対ところの妄心を除んがためなり。人はこの妄心の発るより徒に身を使役て喜怒哀楽の情その度に超、これによりて病苦をも得、本性をも失ふなり。故に今よくこの五事を調適ぬれば、その心かならず安定て動揺ことなきがゆえに、求ずして智慧を増し、欲ずして義
【綜凡七表】
勇を盛にし、病苦も自から去り、長寿をも得るなり。これ予が創意に出たる術にはあらで、古昔聖賢の説おかれたる至道なることは、本文及附言に述ところを読て自ら明かなり。故に人倫の大本を知得て、信義の道に志し、忠孝二つながら全うせんことを欲ものは、この理を体認ずんばあるべからざることなり。故にすべて士庶民の職に任も、商売の財利を通も、凡百伎芸の奥旨を究めんとするも、この旨を領ときは、其成効かならず捷なること
【綜凡七裏】
は、よく本編を読得て知べし。
一琴三弦などの末伎を為にも、その巧妙を得たるものは、指頭を以て弾ことはせずして、ただ必臍下の気力を以てするよし、その達者に聴ところなり。まして撃剣弄槍家のその身体を外気に和して、一切目を以て遇ざること庖丁が牛を解が如きに到れるものは、一人を以てよく数百人の敵をも御ことを得べきなり。これその自然の道に循て、人為をその間に仮ざるがゆえなり。編末載る
【綜凡八表】
ところ白井鳩洲翁の兵術これなり。未悟者はかならずこれを疑うものあるべければ、それらの為には敢て説がたし。
一臍下丹田を身体の枢軸となし、外気と応和し得るときは、必不可思議の妙用あることを本編に論ぜり。是唯一个の身にかかるやうなれども、これを拡充ときは、将率一人の心より数千万騎の卒伍をも、肱の指をつかうがごとく、運用自在ならしむるも、またこの工夫よりおもい得べし。故に
【綜凡八裏】
人よくこの道理を体認て、その自得するところに至ては、その人々の等級に従て、大に差別あるべきことなり。
一潅水にて病を療すること、我邦には、日本紀、持統天皇紀に、近江国益須郡都賀山の泉に浴て、病を療ぜしもの多きよしを記せしより、続日本紀、元正天皇紀の、多度山の飛泉に行幸ありて、御脳を治したまいしことなどを濫触として、出雲風土記、長秋記、栄花物語、
続古事談、その他種々の書に多し。
【綜凡九表】
殊竺土の典には、水に浴て病を治することを多く載て、医療の一法に充たり。中夏のむかし、治術に行水の法あることは、素問五常政大論に出て、漢の大倉公、魏の華佗なども用ひしよし見えたり。また、弘仁九年新修鷹経に、鷹の病を水にて洗ふことなどもありて、今馬療に水浴の法を用るものあると同旨趣なり。然るときは、人体のみならず、鳥獣にもまた水の効用多きこと明かなるを、中古よりその術廃れて、世に行はれざるは、尤遺憾ことな
【綜凡九裏】
らずや。予多年これを自己に試み、病者に施して、其偉効あることを的確に知るが故に、既済微言、水療俗弁等の書を著て、水の効用を世人に告知しめんと欲ども、橘黄の暇なくていまだ果さず。たとへ今病なきものといへども、日々潅水ときは、その身体を健にして、病害を防ぐ便となるのみならず、太古伊邪那岐大神の阿波岐原の中瀬に禊秡ましまして、死穢をはらいたまいしがごとく、よく身心の汚穢を掃除て、居動軽便、精神爽利な
【綜凡十表】
らんこと、その妙挙て言べからざるものあり。故に本編論ずるところの調息術と、併行れて相悖らず。互に効験あることなれば、その梗概をここに記しぬ。詳なることは、水療俗弁等の書の出るを待て知べし。
一此編は、もとこれを同好の士に贈て、敢て市に鬻ことを欲ざりしこと、附言にいうがごとくなりしに、この頃書肆の需頻なるにより、またつらつら顧れば、もと世に公にせんことを憚るにはあらねど、そ
【綜凡十裏】
の倉卒の述作なるを以て、文辞も短く、論説も迂闊なれば、大方の謗を畏るにあり。これ併ながら、予が厭ふところの毀誉の情に拘るに似たれば、今は書肆の乞ところに従せ、変売しめて、これを衆人に問ことになりぬ。仍てその要領を再ここに記すになん。
天保丙甲の春正月 攖寧室主人
『養性訣』巻上 五事調和釈義
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