『養性訣』巻上 五事調和釈義
凡例
(1)変体仮名、片仮名などは、現行のひらがなに改めた。
(2)原文は読点のみだが、文脈から判断し、適宜句点を加えた。
(3)細字は〔〕内に記した。
(4)旧仮名遣いと送り仮名はそのままとし、旧字体や俗字などは原則として新字体に統一した。
(5)底本は京都大学富士川文庫所蔵の天保七年版を用いた。原文との照合の便をはかるため、原文の改ページ箇所を【】内に記した。
巻上
【巻上一表】
養性訣上〔五事調和釈義〕
真の摂生の道は、天地自然の性に循ひ、陰陽二儀を調和にあり。その陰陽とは、水火をいふにあらず。寒熱をいうにあらず。また天と地との二つをさしていふにもあらず。すべて形体あるものを、仮に呼で陰となし、その形
【巻上一裏】
体にそれそれの運用あるを、名て陽といふまでのことにして、天地万物は、皆この陰陽の二つを以て生成ることを知しむるまでの称と、まづおもふべし。さて人はこの陰陽沖和の気を受得て生れ、その本心はもと淡然虚静ものなれども、摂生の道に背き、沖和の性を失ふより、疾病も生じ気稟も変じゆくな
【巻上二表】
り。故に人の心の善悪邪正、智愚勇怯の均からざるも、悉皆陰陽の調適と否ざるに因て、骨肉血液の区に別れ、偏倚たる質あるに従て、その差あるなり。故に今人倫の道を明にし、六芸の淵底を究んと欲にも、先その始摂生の道に由ときには、事半にして功倍し、一を聞て十を知の才をも発すべし。かかれば、
【巻上二裏】
一挙にて心術と病苦を両ながら治得べきなり。然を衆人は此理を知ず。生得たる賢恵巧拙の性は、易べからざるものとのみ思ひ、学問伎芸凡百のことも、皆空に無用の地にその身力を尽て、生涯覚悟ことなきは、天性の自然なるものを観得ること能ざるによればなり。固より父母に受得たる稟賦の差に
【巻上三表】
よりて、具有の性質に別なきにあらねど、今よくその天性に循ひ、摂生の道を持り、勤行て息ことなければ、其習慣の自然のごとき質をも変じて、善良の性となし、愚蒙なるこことをも転じて、智断と成しむるは、これ必然の道理なり。古昔聖人の丁寧反覆て説諭たまふ孝悌仁義の道も、ただこの陰陽を調適て、
【巻上三裏】
天地沖和の性を得せしめんための教にして、それを吾医事にとれば、人身の天賦自然の欲ところあるを鍳察て、その所為に任て病を治する旨と、毫も異途あることなし。故に一切の病苦は、皆其心の偏倚ところにあるより発ものなることを、よく反求しぬれば、これを治する法も自と明得らるべきこと
【巻上四表】
なるを、人々その親愛とおもい、賤悪とおもふ心の向かたに偏倚て、その身の修ざるより、精神おのづから外に馳て、血常に上に衝逆、漸に下に粘結て、病苦も従て起、遂にはその天年を終ること能ざるにいたるは、尤歎しきことにあらずや。昔隋の世に陳箴といふ人あり。仙人張果これを相し、期年ならず
【巻上四裏】
して、必死べきよしを告たりしを、その弟の天台山の顗禅師に譚ければ、禅師これにその耳目口鼻の外慾を絶て、食眠体息心の五事を調和、行往坐臥に止観の法を修行すべきことを教て為しむ。陳箴謹でその教を受、これを行ふこと数月、後張果に見ゆ。張果大に驚て、奇なるかな道力、よく短寿を易て長
【巻上五表】
齢となし、卒によく死を越生を得たりと称せしが、陳箴はそれより十五年を経て、病なく端座たるまま死せしとぞ。此法、もと強に寿を延し生を保ことを専にして、設たるにはあらねど、止は心識を愛養にするの善資、観は神解を策発するの妙術と。顗禅師もいいて、その外に放る心識を収摂て、一切外物
【巻上五裏-六表】挿絵
【巻上六裏】
の為に眛されぬやうにとの教なれば、これを仏道修行の楷梯とし、車の双輪鳥の両翼に譬たり。はじめにもいふごとく、人の視聴言動は、皆これ心識の運用なれば、仮にこれを陽に属し、身体耳目の形質あるものは、仮にこれを陰と名く。この陰陽二気は、もと天より受得たる命筭の定限あるものなれば、
【巻上七表】
これを愛養て、妄に外物に役使ぬやうにすれば、その費用ところ少きを以て、心識よく内に守り、血気自充足て、寿筭も延べき道理なり。然を之に反て、己が利欲のために、其体膚を労し、妄に心識を費用こと、其度に過ときには、陰陽沖和の性を失ひ、定限ある命筭を耗散を以て、齢を短ことまた知ぬべし。今
【巻上七裏】
その疾を治し生を全せんことを慮には、先その血液を純粋にし、心識をして内の守を専一にせしむるにあらねば、よく陰陽を沖和の性に復して、成功を見こと能はず。故にその飲食を損て、腸胃を強健にし、動作を節して、体腔の化育を資け、吸呼を調停、体容を寛舒にして、専外に馳の心識を収摂の術に
【巻上八表】
優ものあることなし。故にでよくこれを護、その自然の道に循ひ、勤行で息ざるときには、陰陽自和適、真宰の令周行て、従来の病苦は、旭日に霜の消るが如く、いつとなく平治て、思慮計画も以前に倍し、これに由て長寿を得んこと、更に疑を容べからず。たとへ彼はただ心意を浄せんが為に設たる法な
【巻上八裏】
りとも、此には仮て病苦を救の捷径となし、これに由て其気質を転移しむるに至らば、特摂生医術のみならず、一切道の至極とするものは、ただ天地の自然に率て逆ことなきを本旨とすべきこと、また明なることにあらずや。よつて今五事調和の義を釈こと左の如し。
【巻上九表】
世の人は、食を減せば元気乏弱なり、膏粱を喫ねば、身体枯痩、寿命も促やうにおもふは、大愚昧なることにて、もと実理に疎より、かかる妄慮も発ことなり。しばらく吾医より之を言ば、曰く飲食するところの、穀肉果蔬の精微の液が、血に化て、身体を滋養が為に、四支毛髪の端までも、往来順環、須臾も息こ
【巻上九裏】
となく流行を以て、この血質は純粋清浄を良とす。然を酒食の慾を恣にして、飽足ことを知ば、膏粱を喫こと其度に超ときには、血液が漸に渾濁ゆきて、運化の機転遅渋なり、身体自沈重、起居もわれしらず懶堕になり、心志も従て昏闇、道理を弁別こと能ず。遂には病を醸て、治すべからざるに到なり。世に
【巻上十表】
所謂、癥瘕、留飲、癇疾、脚気、痛痺、卒痱、緩痱、痿躄、婦人子蔵諸病、その他、癈痼不治の病も、十が八九は、飲食の慾を恣にするより発もの多く、傷寒時行病にもまた感冒れやすし。故にまづその血液を再純粋精微にして、転輸に妨害なからしめんと欲には、その飲食を摂慎にあらねば、効を成がたしとす。如何とな
【巻上十裏】
れば、この飲食を消化ところの腹裏の機転は、譬ば、臼の物を磨て屑と為が如きものにて、多投て屑にせんとしては、決して精細になりがたし。また力にあまれる物を担ば、中途に委頓て、よく志ところに到こと能ざるがごとし。故に日々の食事にかならず節度を定て過不足なく、すべて六七分を程限と
【巻上十一表】
すれば、腔内常に余裕ありて、運化の機転に妨害あることなく、心身自平穏に、血液渾濁ことなし。その飲食の宜忌は、病家須知に載たれば、よくかの書を読で、此旨を参究て、その身心を保養べき初門を認得べきなり。
およそ、人の睡眠裏は、血を頭上に輸こと多く、腠理の守衛空疎なるが故に、横臥こと久
【巻上十一裏】
に過て覚ざるときには、漸に上実して下虚し、頭部壅塞て、身体の諸液自稠濁なりて、心識も従て愚蒙になりゆくものなり。眠は眼の食と古人も言ば、かならず貪りて過度ことなく、よく其則を定、寝ときには、よく精神の安定やうにして、心身の老倦を補べきなり。右を下にして臥しむるも、蔵府の位置を以て
【巻上十二表】
いふときには、必しかせねばならぬことなり。また、眠を少くせんとならば、かならず食量を減べし。食多ければ腸胃壅塞て、胸膈を下より衝て、その気が上頭中に逆が故に、眠もまた従て多く、食寡ければ、腹気の衝逆もまた強からねば、眠こと少くして、精神自充足て、身体の運化却て健なり。よりて食眠の多
【巻上十二裏】
少は、相離ぬものなることを、よくよく明むべきことなり。よく此二事を調停ぬものは、假令いかなる才徳の人なりとも、智慮漸に昏闇なりて、病苦もまた従て起るか。または其年壮なるあひだは何の事故なきも、頒白以後精気のやや衰る頃に至て、必重患に係て治すべからざるか。または老耄するか。或は
【巻上十三表】
卒病にて死を招ものなり。殊日出て枕を離ぬは、尤身に害ありとす。如何となれば、すべて朝寝ずきなるものは、日昴に従て、頭部に血の迫こと多きを以て、かならず嗔怒鬱悒等の悩を生じ、癇疾痱病等の患を招く道理あり。また、この二事をよく調停ぬる人は、貪眠者の一と月を以て、吾に於ては二た月の得力
【巻上十三裏】
あるべし。たとへ日に一時の得力ありとも、これを一歳に通計すれば、三百六十時。もつて二た月の昼に當るべし。これを生涯に数れば、その裨益また洪大なりとす。故によく無病にして、その天年を全せんことを希、及学問伎芸、各その極處を明んと欲ものは、まず飲食睡眠の二事は、常に不足なるやうにすべ
【巻上十四表】
きこと、是格物致知の一端なることを領、よく本編を読で、其度を定べし。
体容を正して、後に気息を調和よといふは、周身の気息を臍下に充実て、其四肢を軽虚にし、頭面肩背胸腹四末に、毫もき気の礙滞ところなく、物を提にも事を行にも、すべて臍下の力を用ふるようにせんとの教なり。この
【巻上十四裏】
臍輪以下丹田の地は、人身の正中にて、肢体を運用ところの枢紐なり。上は鼻と相応じて、天地間の大気を鼻よりして吐納、その外気をこの丹田より周身へ普達て、内外一貫になりて、生命を有ところの根本なればなり。故に婦人の懐孕するも、またその種子をここに生育す。また児の子宮中に住や、その
【巻上十五表】
鼻自と臍を覗やうに、体を弓形にして、鼻と臍とを相対し、被膜裏より母の丹田と通応し、おのづから外気を感得す。これ天賦の妙機なり。それ日月星辰の中天に繋も、地界の万物を載て重とせざるも、悉皆その枢軸の運転あるに由てなり。人も又かくのごとく、身体を運転べき大気を、この中心の丹田よ
【巻上十五裏】
り輸て、上下左右平等にして周遍ときには、自天賦の機関に合がゆえに、求ずして不可思議の妙用を具へ、変化自在の徳を有にもいたるべし。もし然ときには、心に憂愁嗔怒の悩もなく、身に痛苦疾疢の煩をも受ず、苦界に在て苦を知ず、楽境に住て楽に著ず。かかるを天地と其徳を同くし、日月とその明
【巻上十六表】
を合するものともいふべきなり。今近人身の中心は臍より下胯より上、腰髎と小腹の間。所謂丹田の地に在ことを験んに、仮令ば、背に重を負ば、体はかならず前に屈、前に物を提ば、背はかならず後へ仰。右に挈れば、左へ側き、左に捉ば右に傾く。この抵対は、必その物の軽重に従ひ、前後左右の重力に任
【巻上十六裏】(見開き画像)
【巻上十七表】
〔行住担提の運動も、すべて臍下丹田を身体の正中にして、左右前後平等に、必天地の直線を外ることなきやうにする。自然の妙機は、よく本文を読得て考ふべし。〕
【巻上十七裏】
て、その中心を撑ること、たとへば、積錘を以て秤衡を平等にするが如く、その身体の仆ざるやうに、心なくしておのづからかくするは、地界の中心より人身の中心をさし貫たる直線を、外ことなきやうにとの、天賦の妙機に由てなり。今体容呼吸を調るは、偏にこの中心を身体の枢軸になして、上下前
【巻上十八表】
後左右平等に、一気の命令よく行わたりて、動静云為、自過不及の差なからしめんがためなり。然をもしこれに反て、身体に偏倚なるところあれば、その偏倚に従て病苦となるなり。今これを衆人に試るに、小腹臍下充実、大腹に支結痞𢡛なきものは、無病なるのみならず、精神よく安定て、仁義の道を志、決
【巻上十八裏】
断かならずよきものなり。また胸脇支𢡛、心下中脘の辺壅塞、臍下に力なきものは、必宿疾ありて、且治しがたく、その思慮定ず、愚痴蒙昧にして、毎事依様模糊。ややもすれば、耳目の慾に惑やすく、飲食もまた停滞がちにて、多くは天寿を全すること能ず。たとへ偶寿を得たるも、老耄して事用にたちがたきも
【巻上十九表】
の多し。方今昇平二百余歳。人々安逸に耽り、歓楽に習て、ただ富貴栄華を慕ひ、名声功利を競逐て飽足ことを知ざるが故に、その心志外にのみ馳て、内に守ものなく、その外物を摂受ところの、耳目口鼻の竅のかたへ、一身の血気とともに胸腹諸蔵を上へ上へと勾引、もし腔内筋膜の繋着がなくば、蔵府はこ
【巻上十九表】
とごとく頭面裏に、搶去もしつべき状なれば、身体は俗に所謂、将棋だをしとやらんになり、臍下空洞にて、物なきが如く、大気の令行ず、下元の力虚乏して、腰脚に力なく、腸胃漸に狭隘なり、日々の飲食停滞敗壊て、血液の運輸怠慢なるなり。かくては、病を生ぜてはかなはぬ躯となることは、全く天性に戻り、
【巻上二十表】
自然の対法を失るが故ぞかし。かかる人の平常を視るに、たとへ亢強やうなるも、大事に臨ては、必周章狼狽て、思慮定なく、終には痴獃の名をとるか。先は堕窳にして気宇なきが多きものなり。古昔に、髄海、谷神、天谷、泥丸宮、または上丹宮、あるいは頂上金剛宮などと、さまざまの名称ありて、頭中に一身を主
【巻上二十裏】
宰ところの心識は在となす。もし然らば、其外物を摂受ところの耳目口鼻を、頭脳に近き面部に開て、身体を使役に便利やうにしたるも、また天賦の妙巧なるべけれど、その耳目口鼻の窓牗より、霧の如く煙のごときもの燻侵て、咫尺を弁こと能ず。凡百の事、すべて恰も闇中に物を模索が如くなるが故に、
【巻上二十一表】
おのれが有なる、天地と混融一体なる霊妙の心識は、譬ば糞壌の中に埋たる金玉に均く、光耀を発するの期あることなし。かく耳目の欲身膚を労し、心志を苦め、一生を名利の巷に奔走は、譬客店の居室の己が意に愜ざるを憂て、暁まで快睡ざるが如く、豈愚の甚きものにあらずや。是をよくよく其初に
【巻上二十一裏】
顧ときには、唯一念の慾を忍ことならずして、遂に禽獣と類を同うし、かく天寿を短にも至が故に、今摂生の第一義とするものは、ただ其慾を忍にありとはいふなり。故に病家須知に、畏と忍との二つを摂生の首とし、力と倹とを以て之を守ことを示せしも、これ天真を全する自然の道に率なり。かかれば、夫婦父
【巻上二十二表】
子君臣朋友の人倫あるに従て、それそれの道は教を待ずして自具有がごとく、摂生の道も、又天地自然の条理に由て、逆ことなきやうにするまでのことにて、他に求べきものにあらず。しかはあれども、かく利慾に心の眛はてたるものを、卒にその本性に復しめんとするは、大に難事にして、人々懊慹嗔沮執拗
【巻上二十二裏】
疎放を、自己の性格なり。或は親の気質を受たるなりなどと裁量て、改んとおもふ者少なければ、それらの為には、先その性格とするものは、其ままに暫放下て、只飲食の量を定、睡眠の則をたてて、さてそれより、体の倚側を戒め、呼吸を調和しめて、行住坐臥にこの心を存て、瞬時も忘失ことなからしむれば、そ
【巻上二十三表】
の心の沈るもの浮もの、いつとなく調停て、胸腹寛舒となり、臍下自然に充実て、頭肩漸に軽く、腰脚に力用発て、その心の偏倚は、自ら改りゆくに従ひ、従来の癇疾、癥瘕、留飲、すべて肩背に結塞ところの病、婦人蔵躁、月信不調、その他一切沈痾も、薬石の力を待ずして平治に至れば、かの性格とするところの気
【巻上二十三裏】
質は、何処にか忘失が如く、心意坦懐に、言行柔順になること、その妙挙ていうべからず。若よく斯の如くなる境に到り得の後は、仮令健啖過飲とも、体にさまでの妨害と為ざるのみか。廃痼病を得て困苦ほどのこと、まづは無ものなり。且すべて心は形に隨ものなることは、衣服を整へ威儀を繕たるときと、宴居
【巻上二十四表】
放縦にしたるときは、心の趣ところ自異が故に、病を去意を転すむるの捷径は、この食眠体息を調適に優れる術あるべからず。それ人の世に在や、白駒の隙を過が如く、涯ある生を以て、極なき利欲妄想の為に、病を抱て天命を促ことは、己が心識に、かかる徳性を具有ことを知ず、徒に形体の限を弾て、飽足
【巻上二十四裏】
ざるが故なり。もし人よく寡慾の摂生の第一義なることを知得ときには、強に五事調和を仮までもなく、病苦なくして泰然とその天寿を終て、子孫の栄をも期すべきなり。故に世人よくよくこの道理を領んことを庶幾のみ。
養性訣巻之上終
『養性訣』巻下 衛気釈義附調息一術
『養性訣』綜凡
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