『養性訣』巻下 衛気釈義附調息一術
凡例
(1)変体仮名、片仮名などは、現行のひらがなに改めた。
(2)原文は読点のみだが、文脈から判断し、適宜句点を加えた。
(3)細字は〔〕内に記した。
(4)旧仮名遣いと送り仮名はそのままとし、旧字体や俗字などは原則として新字体に統一した。
(5)底本は京都大学富士川文庫所蔵の天保七年版を用いた。原文との照合の便をはかるため、原文の改ページ箇所を【】内に記した。
巻下
【巻下一表】
養性訣巻下〔衛気釈義附調息一術〕
病の伝染べき理を説条に、孝悌仁愛の志あるものは、其身内より発透て、上下四方を衛護ところろの気ありて、いかなる悪毒気といへども、その人の雰囲裏を侵裹て、身を害することは決してなきよしを記せしも、この
【巻下一裏】
身体の中心より、上下四方へ発透て、雰囲となるところの光輝〔名義、しばらく白井氏の称呼に従ふ。その説は下に詳しき。〕をいふなり。これその人の心の善悪邪正徳不徳の等級に従て、発するところの気にもまた差別あり。むかし孔子宋に適て、弟子と礼を大樹の下に習はす。桓魋孔子を憎て、之を害せんがために、先その樹を伐んと
【巻下ニ表】
す。孔子これを避たまふとき、弟子の速に去たまふべきよしを告せしかば、孔子答て、天より徳を吾に生せり。桓魋それ吾を如何すべきとのたまひて、敢て懼たまはざりしも、其大徳身体より発出して、光輝となるを以て、桓魋いかにおもふとも、害を加ること能ざるを、正に知しめせばなり。また、宋の劉元
【巻下ニ裏】図
【巻下三表】図

【巻下三裏】
城が人のために讒せられ、嶺南に赴とき、母を携て山中を過たりしに、大蛇来てこれを侵んとす。元城その蛇に向て立たれば、大蛇卒に遁避ぬ。後に人何の術ありりてか、よく之を退たると尋しに、誠を以てせしよしを答しも、その至孝の心より発出ところの光暉を以て、大蛇を圧却たるなり。かかることを
【巻下四表】
いはば、頗怪異を談やうにおもひ、疑ものもあるべけれど、ここに近くその証を挙て示べし。椎谷藩の一童子。朝寝室より出て、その項の右の方わづか一寸許の処のみ、頻に風の侵透よしをいひて、手を以てこれを按て居たりしが、居頃児輩に携て、外に出て遊ぬ。その地を隔て、家士の演射場ありしより、い
【巻下四裏】
かがしてか流矢来て、忽かの風の侵透と訟し項後より、喉の方へ射貫て、児はそのままに絶たりし。また、一武士ひと右脇下大に痛て、通宵快寝ざりしが、その翼公廝にて、かねがね怨を負もののために、右脇下を刺れて速死したるよしを聴り。これら、その雰囲の衛気自疎隙を生したるところより、この害
【巻下五表】
を冒なり。かかることを聴ても、衆人の生命を保あいだは、その等級に従て、体中よりこの雰囲の光暉を発出て、これを衛護ものなることを、よくよく観察べきなり。すべて上は日月星辰をはじめ、地界の広大なる、万有の微小なるに至までも、一切この光暉あらざるものあることなく、またこの光暉は、彼と
【巻下五裏】
是と混融一体にして、万類各自の区別その中にありて、互に相感通するなり。所謂、天地の間は、一気の感応なること、決し疑べきにあらず。昔在夏の禹王の時に、有苗といふ夷を征伐ありしに、夷強して敢て服ざりしかば、益といひし賢者禹王に賛て、惟徳は天をも動すゆえに、遠として届ざることなきも
【巻下六表】
のなり。至誠を以てすれば、神をも感ぜしむ。況てこの有苗の夷をやといひて、そのままに師を班し、ただ徳政を修しめ、干羽といふ舞などをさせて、敢て伐んともせざりしに、やがて夷のかたより降参せしよしみえたるも、これ一気の感応なり。かかることは、和漢古今その例多ければ、よく推究て其理を
【巻下六裏】
察すべし。嘗胭脂を製ものに聴り。その家翁もしいささかも嗔ことあれば、そのときの胭脂色かならず麤悪、且得こと少し。ゆえに胭脂を製造ところの戸主は、強て柔和なるやうにすることなり。これらもまた一気の感応にて、必あるべき道理なり。大凡一家を保ものは、その家主の雰囲の光暉、その屋裏
【巻下七表】
を衛護、一国を領する者は、その光暉その国中をまもり、一天下を治るところの君は、其光暉天下を覆て、これを衛護なり。人よくこの理を観得ときには、その家翁君主の徳に従ひ、国家の災福はあることをも弁て、謹慎をくはふべきことにあらずや。
近来また一つの調息の術を得たり。其法は、布
【巻下七裏】
を以て胸下腹上を緊縛て、臍下へ気息を充実しむるなり。これを試に、大に捷便にして行やすく、五事調和を為得ざるものと雖、よく此法に従ときは、その成効尤速なり。それは綿布の長さ曲尺にて六尺有余。呉服尺にては五尺許なるを四つに摺て、左右季肋端章門の辺へかけて、二重に纏紮、さて、力を極
【巻下八表】
て、臍下へ大気を吸入こと、その人の機根に応じて、日々三四百次よりニ三千次にもいたる。これを行にはその体を柔和にし、肩を垂背を屈、すべて胸腹肩臂を虚して、ただ臍下に気息を充実なり。これを従来伝るところと異がごとくなれども、其本旨は必しも相背ずとす。故は身体の中心なる臍下丹田は、上
【巻下八裏】
鼻頭と応通すること、はじめに説るが如く、また吾医の四診の一つなる望にも、臍中より以下の病苦を準頭の色相を以て観察ことあるも、真気の往来もつとも近ところなればなり。ゆえに座禅家の法も、鼻と臍とを上と下とに相対し、脊膂を竪起て、その体を偏斜低昂なからしめ、面を平かにし、耳輪
【巻下九表】
を肩上に中て、正住にあらねば、心気よく臍下に止こと能ず。ゆえに必茲は教るなる。されども、もと観想を以て行ことなれば、自己はよく修し得たりとおもふものも、多くは偏見に溺て、禅定成就せざるのみか。これに固て病を生ずるものもまた多し。ゆえに今の世の長老知識と称れ、参禅工夫間断なし
【巻下九裏】
といふものも、その身体各処に気の滞ところありて、何のとりどころもなきが多きをみれば、言行一致内外一貫之地には、中々到られぬ輩とは知れたり。これその動中に静あり。静中に動ありて、動静もとより不二なることを知ず。ただ空心静坐にならねば、定に入たるにてはなく、道は得られぬことと、
【巻下十表】
のみとおもひ謬り、行住坐臥ことごとく禅定ならざるものなき理を明にせざるに由て、かくなりゆきて、其状恰も痴呆にひとしく、また狐狸に誑れたるがごとく、或は大悟徹底と自慢して、その言行ほとんど狂人に類似たるもの多し。かの慧能禅師の、空心静坐の大道を妨るむねを説れしは、全かかる輩の
【巻下十裏】図

〔これその胸下をくくり、支体を虚にし、周身の気力を丹田に充実て、眉間を臍へ対し、鼻中より臍下へ呼吸を吐納るところの図なり。〕
【巻下十一表】図
〔これ従来座禅の状なり。座禅儀に、目はすこしくひらくべしとなり。円通禅師は、人の目を閉て座禅するを、黒山の鬼窟なりと訶せしよし。などみえたり。〕
【巻下十一裏】
為なるべし。故に予が五事調和も、動中の工夫を専に示たるは、いささか微意のあればなり。今この帯を用ひて胸下を紮の法は、強に脊骨を直にして趺坐におよばず。ただその体を放て平坐、面を伏て臍中を覗やうにして、鼻頭と臍とを対しむ。且行住坐臥にその意を用ひて、須臾も止ことなく、大気をし
【巻下十ニ表】
て常に臍下に充実なり。これ活用の法にして、鼻と臍とを対せしむるに、ただ内外の差別あるまでなれども、かの心下痞塞、胸脇苦懣、または中脘臍傍などに癥瘕ありて、いかに正坐ても、気息臍下に到がたきものも、其胸腹を虚して、気力を極て臍下へ吐納しむる則には、かならず到ざるものなきを以て、
【巻下十ニ裏】
大ひに行易とす。もし此術に従て、呼吸を調んには、その坐には、臀肉を以て席上を圧意をなし、歩行には、気息を以て小腹を牢紮やうにして、脚歩よりも小腹まづ進が如くし、その面人に対し、眼に外物を視ときにも、心にはかならず臍下を観の念を、瞬時も忘失ることなければ、その外物と交ところの妄心
【巻下十三表】
自断て、心識安定、陰陽和適ことを得る捷径の法なり。予が此術を伝しは、兵法者鳩洲白井翁〔義謙。俗称亨。〕なり。此翁の師に、寺田五右衛門〔宗有〕といふ人ありて、白隠の弟子東嶺より、参禅練丹の術を受。はじめてこれを兵法に加たれども、其術いまだ全ことを得ず。ただ己が有にして、之を人に伝ること能ず。且動
【巻下十三裏】
ばその骨力を託て、欠漏少なからずときく。然を鳩洲翁の伎は、その師に卓絶て、よく動中の工夫を凝し、空中大気の活動あるを察し、鋒尖の赫機を観せしも、皆その自得に出て、よく心身を虚にし、敵を伏するに、天真無為の道を以てするの妙を得たり。その尤長ぜることは、稚子幼童といへども、随宜接引
【巻下十四表】
を設てこれを誘導、久からずして必その大旨を得せしめ、諄々よく人を誨て、終に倦厭の色を視たるものなし。且その人となり恭謙忠実にて、よく老母に仕て孝を尽す。よく貧に安じて、いささかも功名富貴を慕の念なし。宜哉かくのごとき古今未発の兵法を発明せしも、その伎に志篤に由てなり。予こ
【巻下十四裏】
こに於て大ひに心服し、敢てその教を受、旁その帯を用ひて、これを沈痾痼癖に験て、効を見もの数十人。その佗伝て行はしむるもの百有余人に及び、各その利を得を以て、吾医術の一助となるを怡ぬ。この腹を紮て気息を調停る法は、白幽とやらんが白隠に伝しところなりといへども、予これを撿るに、は
【巻下十五表】
やく後漢の安世高が訳の大比丘三千威儀といふ律部の書に出て、禅家には必要の物なりしを、いかがして廃しか。今に於てその製の詳なることは、得て知べからず。今試にこの尺度に倣てこれを製んには、後漢の尺を用ふべきなれども、その初竺土の尺度を漢地に訳せしも、筭数の強弱必有べき分なる
【巻下十五裏】
を、ただ一尺といひ八尺とのみあるからは、その大概を記せしものとみえたり。ただ試に、三重に纏絡ばますます力を得、鉤に代に環を以てし、その端を貫とむれば、大に捷便ことをおほゆれば、予は専にこれを用ふるなり。その尺度の如きは、ここに拘べきことにもあらねば、各体の肥瘦に応じてこれを
【巻下十六表】
制べし。予が此帯を用てより試験たるところのものは、肺癰、喘哮、癇疾、蔵躁、眩暈、痱疾、及頭痛経久愈ざるもの。骨蒸熱に類せる患者、鼓張の初発、其他、癥瘕失治者、肩背痛の愈がたき類に、いづれもこれを伝し人ごとに、其行やすきを以て、予が従来用ふるところの調息術に比れば、其成効はなはだ速なるこ
【巻下十六裏】
と、挙ていふべからざるものあり。老子の、虚其心実其腹といひ、また、聖人為腹不為目などあるを、既に甲斐の徳本翁も、息を臍下に充実しめ、心を虚無自然の地に任することにとりて、その著ところの極秘方といふ書に、すべて病人をみるには、心中に一点の念慮なく、気海丹田へ気をおさめ病人もなく、
【巻下十七表】
我もなきところより手を下せば、自然にみゆるものなりと、記せしは、よく此意を得たるが故なり。易の彖伝に、君子虚以受人といひ、荘子に、君子不可以不刳心焉。または、虚縁而葆真などいふも、皆その私を去己を虚にして、ただ自然の道に従て、天真を養の意なりといへば、今鳩洲翁が兵法の、ただ天真に
【巻下十七裏】
任て、毫も私意を挟ことなかれと示さるるは、全く老荘の骨髄を得たるものといふべきなり。すべての事は、皆己が心の外物と相対する間に、意必固我の念起るに由て、思ところ為ところ、皆その自然の性を失て、偏倚なるかたに陥なり。古人も、人欲一分消れば、天理一分長ずといふて、このことをふかく
【巻下十八表】
誡られたり、仮令書を読道を講するにも、この心あるにあらねば、皆古人の余唾を嘗、ただその形跡を追までのことにて、博学で却て害となることあり。もししかる輩のこの旨を会得せざる心よりは、かならず迂闊ことのやうにおもふべけれど、大にしては天下国家を治め、小にしては凡百の伎芸も、心
【巻下十八裏】図

〔音は、革にあらず指にあらず。指と革と相搏の顫動を、風気に伝へて、耳に送るなれば、今臍下の気息を外気に和することを得ばおのづから人をして感ぜしむるの妙処に到べし〕
〔鼓の後面へうちとほす。これ一気を以てつらぬくなり。〕
【巻下十九表】図
〔胸肋より手腕にいたるの間はすべて空洞にして物なきが如く、ただ臍下の気力を筆尖に貫通し、筆よく手を忘れ、手よく筆をわするるの境に到らば、運転自在の妙を得べき也。〕
〔己が頭面を臍下へ没入するの観をなして、丹田と水注との正中を、心を以て相対せしめ、その高低を自然にまかせ、手脚を忘て運び出す也。〕
【巻下十九裏】図

〔馭馬の法は、丹田の気力を充実て、支体を虚無になららしむれば、精神自然と両鑣四蹄を透貫て、鞍上に人なく、鞍下に馬なきの機を自得し、四技〈鞍、轡、鎧、鞭。〉三術〈合節。知機。処分。〉学ずしておのづからその妙に到るべし。〕
〔すべて臍下の力のみを以て馬を自在に動す也。〕
〔この手綱と、とる手をともにわするる也。〕
【巻下二十表】図
〔勁弓を彎て、よく中ることを得るの力は、臂腕にあらず。指頭にあらず。ただ身体の正中なる、丹田の枢軸より発せし一気を以て、発ぬ先に的を貫くなり。唐の太宗の本心正しからざれば、脈理皆邪なりといへるは、いまだ尽さざるところあり。〕
〔これもまた、その胸肩臂指を虚にして、ただ臍下に気息をはりつめ、その心を以て的にむかひ、眼を以て視ることをいましむべし。〕
〔すべて、これらの図は、その旨をつくさざること多し。看ものよろしく裁酌すべし。〕
【巻下二十裏】
術を主にせざるは皆膚浅のことになりて、実用にたちがたし。故に志あらん者は、よくよく此理を体認べきことと、予は思なり。されと、百城の烟水たどりし昔の例すら、なほ参見の善知識をして、失利慚惶の謗を負しむれば今鳩洲翁の空中の機関を自得せし説の、予が旨に契合しを怡び、その善誘に由て、
【巻下二一表】
疾苦を治する捷径を得たるを、速に人に告知しめんとするも、またいかにぞやと思るるものから、一片の老婆心の止がたくて、かく概略を記ものならし。
養性訣巻之下〔終〕