『養生訣』巻下 衛気釈義附調息一術

凡例

(1)変体仮名、片仮名などは、現行のひらがなに改めた。

(2)原文は読点のみだが、文脈から判断し、適宜句点を加えた。

(3)細字は〔〕内に記した。

(4)旧仮名遣いと送り仮名はそのままとし、旧字体や俗字などは原則として新字体に統一した。

(5)底本は京都大学富士川文庫所蔵の天保七年版を用いた。原文との照合の便をはかるため、原文の改ページ箇所を【】内に記した。

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【巻下一表】

養生訣巻下〔衛気釈義附調息一術〕

病の伝染(うつる)べき(わけ)説条(とくところ)に、孝悌仁愛(かうていじひ)(こころがけ)あるものは、(その)身内(からだ)より発透(はりいだし)て、上下四方を衛護(まもる)ところろの()ありて、いかなる悪毒気(あしきき)といへども、その人の雰囲裏(かこみ)侵裹(おかし)て、()(がひ)することは(けつ)してなきよしを(しる)せしも、この

【巻下一裏】

身体(からだ)中心(まんなか)より、上下四方へ発透(はりいだし)て、雰囲(かこみ)となるところの光輝(のび)〔名義、しばらく白井氏の称呼に従ふ。その説は下に詳しき。〕をいふなり。これその人の心の善悪(よきあしき)邪正(ただしきまがれる)徳不徳(とくあるときなき)等級(しだひ)(つれ)て、(はつ)するところの気にもまた差別(しやべつ)あり。むかし孔子(こうし)(そう)(ゆき)て、弟子(でしたち)(れい)大樹(じゆ)(もと)(なら)はす。桓魋(くわんたい)孔子を(にくみ)て、(これ)(がひ)せんがために、(まづ)その()(きら)んと

【巻下ニ表】

す。孔子これを(さけ)たまふとき、弟子(でしたち)(さつそく)(のき)たまふべきよしを(もう)せしかば、孔子(こたへ)て、天より(とく)(われ)()せり。桓魋(くわんたい)それ(われ)如何(いかが)すべきとのたまひて、(あへ)(おそれ)たまはざりしも、(その)大徳(たいとく)身体(みうち)より発出(はりいだ)して、光輝(のび)となるを以て、桓魋(くわんたい)いかにおもふとも、(がい)(くわふ)ること(なら)ざるを、(たしか)(しろ)しめせばなり。また、(そう)劉元(りうげん)

【巻下ニ裏】図

【巻下三表】図

【巻下三裏】

(じやう)が人のために(ざんげん)せられ、嶺南(れいなん)(おもくく)とき、母を(つれ)て山中を(とほり)たりしに、大(じや)(きたり)てこれを(おかさ)んとす。元城その(じや)(むかひ)(たち)たれば、大蛇(じや)(にわか)遁避(にげさり)ぬ。(のち)に人(なに)(じゆつ)ありりてか、よく之を退(しりぞけ)たると(たづね)しに、(まこと)(もつ)てせしよしを(こたへ)しも、その至孝(かうかう)の心より発出(はりいだす)ところの光暉(のび)を以て、大(じや)圧却(おさへつけ)たるなり。かかることを

【巻下四表】

いはば、(すこぶる)怪異(ふしぎ)(いふ)やうにおもひ、(うたがふ)ものもあるべけれど、ここに(ちか)くその(しようこ)(あげ)(しめす)べし。椎谷藩(しいやのかちう)一童子(こども)(あさ)寝室(ねどころ)より(いで)て、その(えり)の右の方わづか一寸(ばかり)(ところ)のみ、(しきり)(かぜ)侵透(しみる)よしをいひて、手を以てこれを(おさへ)()たりしが、居頃(ほどなく)児輩(ともだち)(さそわれ)て、外に出て(あそび)ぬ。その(ところ)(へだて)て、家士(かちう)演射場(まとば)ありしより、い

【巻下四裏】

かがしてか流矢(それや)(きたり)て、(たちまち)かの風の侵透(しみる)(いひ)項後(えりもと)より、(のんど)の方へ射貫(いとほし)て、児はそのままに(しに)たりし。また、一武士(あるぶし)ひと右脇下(みぎわきのした)大に(いたみ)て、通宵(よもすがら)快寝(ねいら)ざりしが、その(あくるひ)公廝(やくしよ)にて、かねがね(うらみ)(うけし)もののために、右脇下(みぎわきのした)(ささ)れて速死(そくし)したるよしを(きけ)り。これら、その雰囲(かこみ)衛気(のび)(おのづから)疎隙(すきま)(しよう)したるところより、この(がい)

【巻下五表】

(うけし)なり。かかることを(きき)ても、衆人(ひとびと)生命(いのち)(たもつ)あいだは、その等級(しなじな)(したがひ)て、体中(からだ)よりこの雰囲(かまへ)光暉(のび)発出(はりいだし)て、これを衛護(まもる)ものなることを、よくよく観察(かんがふ)べきなり。すべて上は日月星辰(ほし)をはじめ、地界(せかい)広大(おほひ)なる、万有(はんぶつ)微小(かすか)なるに(いたる)までも、一切(さい)この光暉(のび)あらざるものあることなく、またこの光暉(のび)は、(かれ)

【巻下五裏】

(これ)混融一体(ひとつら)にして、万類(ばんぶつ)各自(それそれ)区別(しやべつ)その(うち)にありて、(たがひ)相感通(あひかんつう)するなり。所謂(いはゆる)、天地の(あひだ)は、一()感応(かんおう)なること、(けつ)(うたがふ)べきにあらず。昔在(むかし)()禹王(うわう)(とき)に、有苗(ゆうびやう)といふ(えびす)征伐(せいばつ)ありしに、夷強(えびすつよく)して(あへ)(したがは)ざりしかば、(えき)といひし賢者(けんしや)禹王(うわう)(まうし)て、惟徳(これとく)は天をも(うごか)すゆえに、(とほし)として(ゆきとどか)ざることなきも

【巻下六表】

のなり。至誠(まこと)を以てすれば、(かみほとけ)をも(かん)ぜしむ。(まし)てこの有苗(ゆうびやう)(えびす)をやといひて、そのままに(いくさ)(かへ)し、ただ徳政(まつりごと)(おさめ)しめ、干羽(かんう)といふ(まひ)などをさせて、(あへ)(うた)んともせざりしに、やがて(えびす)のかたより降参(かうさん)せしよしみえたるも、これ一()感応(かんおう)なり。かかることは、和漢(わかん)古今その(ためし)(おほ)ければ、よく推究(おしきわめ)其理(そのり)

【巻下六裏】

(さつ)すべし。(かつ)胭脂(べに)(こしらゆる)ものに(きけ)り。その家翁(あるじ)もしいささかも(はらたつ)ことあれば、そのときの胭脂色(べにのいろ)かならず麤悪(あしく)(かつ)(うる)こと(すくな)し。ゆえに胭脂(べに)製造(こしらゆる)ところの戸主(ていしゆ)は、(つとめ)柔和(にうわ)なるやうにすることなり。これらもまた一気()感応(かんおう)にて、(かならず)あるべき道理(だうり)なり。大凡(およそ)()(たもつ)ものは、その家主(あるし)雰囲(かまへ)光暉(のび)、その屋裏(いへのうち)

【巻下七表】

衛護(まもり)、一(こく)(りやう)する(ひと)は、その光暉(のび)その国中(くに)をまもり、一天下を(おさむ)るところの(きみ)は、(その)光暉(のび)天下を(おほふ)て、これを衛護(まもる)なり。人よくこの()観得(しりうる)ときには、その家翁(あるじ)君主(きみ)(とく)(したが)ひ、国家(こくか)災福(よきあしき)はあることをも(わきまへ)て、謹慎(つつしみ)をくはふべきことにあらずや。

近来また一つの調息(てうそく)(じゆつ)()たり。其法(そのしかた)は、(ぬの)

【巻下七裏】

を以て胸下(むねのした)腹上(はらのうへ)緊縛(かたくしばり)て、臍下(ほぞのした)気息(いき)充実(はりつめ)しむるなり。これを(こころむる)に、大に捷便(ちかみち)にして(おこなひ)やすく、五事調和(ごじていわ)為得(なしえ)ざるものと(いへども)、よく此法(このはふ)(したがふ)ときは、その成効(しるし)尤速(もつともすみやか)なり。それは綿布(もめん)(なが)曲尺(かねざし)にて六尺有余(あまり)呉服(ごふく)尺にては五尺(ばかり)なるを四つに(たたみ)て、左右季肋端(あばらのはし)章門(しやうもん)(あたり)へかけて、二重(ふたへ)纏紮(まとひくくり)、さて、(せい)(こめ)

【巻下八表】

て、臍下(ほぞのした)大気(いき)吸入(はりつむる)こと、その人の機根(きこん)(おう)じて、日々三四百(ぺん)よりニ三千(ぺん)にもいたる。これを(おこなふ)にはその(からだ)柔和(にうわ)にし、(かた)(たれ)()(かがめ)、すべて胸腹(むねはら)肩臂(かたひじ)(たわいなく)して、ただ臍下(ほぞのした)気息(いき)充実(はりつむる)なり。これを従来(いままで)(つたふ)るところと(ことなる)がごとくなれども、(その)本旨(むね)(かならず)しも相背(あひそむか)ずとす。故は身体(からだ)中心(まんなか)なる臍下(ほぞのした)丹田(たんでん)は、(かみ)

【巻下八裏】

鼻頭(はなばしら)応通(あうつう)すること、はじめに(とけ)るが(ごと)く、また吾医(いしやのかた)四診(しん)の一つなる(ぼふ)にも、臍中(ほど)より以下の病苦(やまひ)準頭(はなばしら)色相(いろあひ)を以て観察(うかがふ)ことあるも、真気(げんき)往来(かよひ)もつとも(ちかき)ところなればなり。ゆえに座禅家(ざぜん)(はふ)も、(はな)(ほぞ)とを上と下とに相対(あひたい)し、脊膂(せぼね)竪起(たて)て、その(からだ)偏斜(ひづみ)低昂(たかびく)なからしめ、(かほ)(たひら)かにし、耳輪(みみたぶ)

【巻下九表】

肩上(かたのうへ)(あて)て、正住(すわる)にあらねば、心気(こころもち)よく臍下(ほぞのした)(おちつく)こと(なら)ず。ゆえに(ぜひとも)(かく)(おしふ)るなる。されども、もと観想(こころもち)を以て(する)ことなれば、自己(おのれ)はよく(じゆ)()たりとおもふものも、多くは偏見(てまへめんきよ)(なり)て、禅定成就(せんじやうじゃうじゆ)せざるのみか。これに(よつ)(やまひ)(しやう)ずるものもまた多し。ゆえに今の世の長(らう)知識(ちしき)(よば)れ、参禅(さんぜん)工夫(くふう)間断(かんだん)なし

【巻下九裏】

といふものも、その身体(みうち)各処(あちこち)()(とどこほる)ところありて、(なに)のとりどころもなきが多きをみれば、言行一致(くちでいふとほりに)内外一貫之地(どこもかもゆきつまるところなきばしよ)には、中々到られぬ(やから)とは(しら)れたり。これその(どう)中に(じやう)あり。(じやう)中に動ありて、動静(どうじやう)もとより不二(ひとつ)なることを(しら)ず。ただ空心静坐(むしんになりてすわる)にならねば、(じやう)に入たるにてはなく、道は得られぬことと、

【巻下十表】

のみとおもひ(あやま)り、行住坐臥(たちいおきふし)ことごとく禅定(ざぜん)ならざるものなき()(あきらか)にせざるに(よつ)て、かくなりゆきて、其状恰(そのありさまあたか)痴呆(あほう)にひとしく、また狐狸(きつねたぬき)(ばかさ)れたるがごとく、(あるひ)大悟(さとり)徹底(きりたり)自慢(じまん)して、その言行(たちふるまひ)ほとんど狂人(きちがひ)類似(により)たるもの多し。かの慧能禅師(えのうぜんじ)の、空心(くうしん)静坐(じやうざ)大道(だいだう)(さまたぐ)るむねを(とか)れしは、(まつたく)かかる(ともがら)

【巻下十裏】図

〔これその胸下(むねした)をくくり、支体(からだ)(きよ)にし、周身(さうみ)気力(いき)を丹田に充実(はりつめ)て、眉間(みけん)(ほぞ)(たい)し、鼻中(はな)より臍下へ呼吸(いき)吐納(いる)るところの図なり。〕

【巻下十一表】図

〔これ従来(むかしより)座禅(ざぜん)(かたち)なり。座禅儀(ざぜんぎ)に、目はすこしくひらくべしとなり。円通禅師(えんつうぜんし)は、人の目を(とぢ)て座禅するを、黒山の鬼窟(きくつ)なりと(こら)せしよし。などみえたり。〕

【巻下十一裏】

(ため)なるべし。(ゆえ)に予が五()調和(てうわ)も、(どう)中の工夫(くふう)(もつぱら)(しめし)たるは、いささか微意(こころいれ)のあればなり。今この(おび)を用ひて胸下(むねのした)(くくる)(はふ)は、(あながち)脊骨(せぼね)(まつすぐ)にして趺坐(すわる)におよばず。ただその(からだ)(ゆるりとし)平坐(すわり)(かほ)(うつむけ)臍中(ほぞのなか)(のぞく)やうにして、鼻頭(はなばしら)(ほぞ)とを(むかは)しむ。(かつ)行住(たちい)坐臥(おきふし)にその(こころもち)を用ひて、須臾(しばらく)(やむ)ことなく、大気(いき)をし

【巻下十ニ表】

(つね)臍下(ほぞのした)充実(はりつめる)なり。これ活用(はたらき)(しかた)にして、(はな)(ほぞ)とを(たひ)せしむるに、ただ内外(うちそと)差別(しやべつ)あるまでなれども、かの心下痞塞(むねつかへ)胸脇苦懣(はらこり)、または中脘(ちうくわん)臍傍(ほぞのあたり)などに癥瘕(かたまり)ありて、いかに正坐(すわり)ても、気息(いき)臍下(ほぞのした)(とどき)がたきものも、(その)胸腹(むねはら)(たわいなく)して、気力(いき)(はりつめ)臍下(ほぞのした)吐納(いれ)しむる(とき)には、かならず(とどか)ざるものなきを以て、

【巻下十ニ裏】

大ひに行易(なしやすし)とす。もし此術(このじゆつ)(したがひ)て、呼吸(いきあひ)調(ととのへ)んには、その(すわる)には、臀肉(しりのにく)を以て席上(たたみのうへ)圧意(おすこころもち)をなし、歩行(あゆむ)には、気息(いき)を以て小腹(したはら)牢紮(ひきしむる)やうにして、脚歩(あし)よりも小腹(したはら)まづ(すすむ)(ごと)くし、その(おもて)人に(たい)し、()外物(もの)(みる)ときにも、心にはかならず臍下(ほぞのした)(みる)(こころ)を、瞬時(すこしのま)忘失(わする)ることなければ、その外物(もの)(まじはる)ところの妄心(もうしん)

【巻下十三表】

自断(おのづからたえ)て、心識(こころ)安定(おちつき)陰陽(いんやう)和適(ととのふ)ことを()捷径(ちかみち)(はふ)なり。()此術(このじゆつ)(つたはり)しは、兵法者(へいはふじや)鳩洲(きうしう)白井(おう)〔義謙。俗称亨。〕なり。此(おきな)の師に、寺田五右衛門〔宗有〕といふ人ありて、白隠(いん)の弟子東嶺(とうれい)より、参禅(さんぜん)練丹(れんたん)(しゆつ)(うけ)。はじめてこれを兵法(へいはふ)(くはへ)たれども、其術(そのじゆつ)いまだ(まつたき)ことを()ず。ただ(おのれ)(もの)にして、之を人に(つたふ)ること(あたは)ず。(かつ)(やもすれ)

【巻下十三裏】

ばその骨力(ちから)(たのみ)て、欠漏(しおち)少なからずときく。(しかる)鳩洲翁(きうしうおう)(わざ)は、その()卓絶(すぐれ)て、よく(どう)中の工夫(くふう)(こら)し、(くう)大気(たいき)活動(はたらき)あるを(さつ)し、鋒尖(きつさき)赫機(のび)(みいだ)せしも、(みな)その自得(じとく)(いで)て、よく心身(しんじん)(きよ)にし、(てき)(ふく)するに、天真(てんしん)無為(ぶい)(みち)を以てするの(めう)()たり。その(もつとも)(ちやう)ぜることは、稚子幼童(おさなきこども)といへども、随宜接引(さまざまのしかた)

【巻下十四表】

(まうけ)てこれを誘導(みちびき)(ひさし)からずして(かならず)その大旨(むね)()せしめ、諄々(ていねいに)よく人を(をしへ)て、(つひ)倦厭(たいくつ)(いろ)を視()たるものなし。(かつ)その人となり恭謙(へいくだり)忠実(しんじつ)にて、よく老母(らうぼ)(つかへ)(かう)(つく)す。よく(ひん)(やすん)じて、いささかも功名(こうめい)富貴(ふうき)(したふ)(こころ)なし。宜哉(むべなるかな)かくのごとき古今未発(みばつ)兵法(へいはふ)発明(はつめい)せしも、その(わざ)志篤(こころざしあつき)(よつ)てなり。()

【巻下十四裏】

こに於て大ひに心服(しんふく)し、(あへ)てその(をしへ)(うけ)(かたはら)その(をび)を用ひて、これを沈痾痼癖(むづかしくこじれたるやまひ)(こころ)て、(しるし)(あらはす)もの()十人。その(ほか)(つたへ)(おこな)はしむるもの百有()人に及び、(おのおの)その(えき)(うる)を以て、(わが)医術(いじゆつ)一助(たすけ)となるを(よろこび)ぬ。この(はら)(くくり)気息(いき)調停(ととのふ)(はふ)は、白幽(いう)とやらんが白隠(いん)(つたへ)しところなりといへども、()これを(たづぬ)るに、は

【巻下十五表】

やく後漢(ごかん)安世高(あんせいかう)(やく)大比丘(びく)三千威儀(いぎ)といふ律部(りつぶ)(しよ)に出て、禅家(ぜんけ)には必要(ひつよう)(もの)なりしを、いかがして(すたれ)しか。今に(おい)てその(こしらへかた)(つまびらか)なることは、()(しる)べからず。今(こころみ)にこの尺度(すんぱふ)(ならひ)てこれを(こしらへ)んには、後漢(ごかん)(しやく)を用ふべきなれども、その(はじめ)竺土(てんぢく)尺度(しやくど)漢地(から)(やく)せしも、筭数(かんぢやう)強弱(わりあまり)必有(かならずある)べき(はづ)なる

【巻下十五裏】

を、ただ一尺といひ八尺とのみあるからは、その大(がい)(しる)せしものとみえたり。ただ(こころみ)に、三重(みえ)纏絡(まとへ)ばますます力を()(こう)(かゆる)(くわん)を以てし、その端を(つらぬき)とむれば、大に捷便(てまはしよき)ことをおほゆれば、()(もつぱら)にこれを用ふるなり。その尺度(しやくど)の如きは、ここに(かくはる)べきことにもあらねば、各体(ひとびと)肥瘦(からだ)(おう)じてこれを

【巻下十六表】

(こしらゆ)べし。()が此(この)(おび)を用てより試験(こころみ)たるところのものは、肺癰(はいよう)喘哮(ぜんそく)癇疾(かんしよう)蔵躁(をんなのきちがひ)眩暈(めまひ)痱疾(ちうぶう)、及頭痛(づつう)経久(ひさしく)(いえ)ざるもの。骨蒸熱(らうしよう)(るい)せる患者(びやうにん)鼓張(こちやう)初発(しよほつ)其他(そのほか)癥瘕失治(しやくきのなほりかねたる)者、肩背痛(かたせいたみ)(いえ)がたき(るい)に、いづれもこれを(つたへ)し人ごとに、(その)(おこなひ)やすきを以て、()従来(いままで)用ふるところの調息術(いきをととのふるじゆつ)(くらぶ)れば、其成効(そのしるし)はなはだ(すみやか)なるこ

【巻下十六裏】

と、(あげ)ていふべからざるものあり。(らう)子の、虚其心実其腹(そのこころをきょにしそのはらをしつにす)といひ、また、聖人為腹不為目(せいじんははらをなしてめをなさず)などあるを、(すで)甲斐(かひ)徳本翁(とくほんおう)も、(いき)臍下(ほぞのした)充実(みた)しめ、心を虚無(きよむ)自然(しぜん)の地に(まか)することにとりて、その(あらはす)ところの極秘方(ごくひはふ)といふ(ほん)に、すべて(びやう)人をみるには、心中に一点(てん)念慮(ねんりよ)なく、気海(きか)丹田(たんでん)()をおさめ病人もなく、

【巻下十七表】

(われ)もなきところより手を下せば、自然(しぜん)にみゆるものなりと、(しる)せしは、よく(この)(こころ)()たるが故なり。(えき)彖伝(たんでん)に、君子虚以受人(くんしきょにしてもつてひとをうく)といひ、荘子(さうじ)に、君子不可以不刳心焉(くんしもつてこころをさかずんばあるべからず)。または、虚縁而葆真(きよえんにしてしんををさむ)などいふも、皆その(わたくし)(さり)(おのれ)(きよ)にして、ただ自然(しぜん)(みち)(したがひ)て、天真(しん)(やしなふ)()なりといへば、今鳩洲翁(きうしうおう)兵法(はいはふ)の、ただ天真(しん)

【巻下十七裏】

(まかせ)て、(いささか)私意(てまへれうけん)(さしはさむ)ことなかれと(しめ)さるるは、(まつた)老荘(らうさう)骨髄(こつずい)()たるものといふべきなり。すべての(こと)は、(みな)(おのれ)が心の外物(もの)相対(あひたい)する(あひだ)に、意必固我(てまへぎはめ)念起(ねんおこ)るに(よつ)て、(おもふ)ところ(なす)ところ、(みな)その自然(しぜん)(せい)(うしなひ)て、偏倚(へんば)なるかたに(おついる)なり。古人も、人(よく)(ぶん)(きゆ)れば、天()一分長ずといふて、このことをふかく

【巻下十八表】

(いましめ)られたり、仮令(たとへ)書を(よみ)(みち)(かう)するにも、この心あるにあらねば、皆古人の余唾(よだれ)(なめ)、ただその形跡(あと)(おふ)までのことにて、博学(ひとくまなん)(かへつ)(がい)となることあり。もししかる(ともがら)のこの(むね)会得(えとく)せざる(こころ)よりは、かならず迂闊(まわりどほき)ことのやうにおもふべけれど、大にしては天下国家を(おさ)め、小にしては凡百(さまざま)伎芸(げいじゆつ)も、(ここ

【巻下十八裏】図

(おと)は、(かわ)にあらず(ゆび)にあらず。(ゆび)と革と相搏(あひうつ)顫動(ひびき)を、風気に伝へて、(みみ)(おく)るなれば、(いま)臍下(ほぞのした)気息(ちから)を外気に()することを(うれ)ばおのづから人をして(かん)ぜしむるの妙処(めいしよ)(いたる)べし〕

(つづみ)後面(うしろ)へうちとほす。これ一気を以てつらぬくなり。〕

【巻下十九表】図

胸肋(むねあばら)より手腕(てさき)にいたるの間はすべて空洞(からつぽ)にして物なきが如く、ただ(ほぞの)下の気力(ちから)筆尖(ふでさき)貫通(ぬきとほ)し、筆よく手を(わす)れ、手よく筆をわするるの(さかひ)(いた)らば、運転(うんてん)自在(じざい)(めう)()べき也。〕

(おの)が頭面を臍下へ(ぼつ)入するの(くわん)をなして、丹田と水(さし)との正中(まんなか)を、心を以て相対(あいたい)せしめ、その高低(たかびく)自然(しぜん)にまかせ、手脚(あし)(わすれ)(はこ)び出す也。〕

【巻下十九裏】図

馭馬(うまのり)(はふ)は、丹田の気力を充実(はりつめ)て、支体(からだ)虚無(きよむ)になららしむれば、精神(せいしん)自然(しぜん)両鑣(くつわづら)四蹄(よつのあし)透貫(ぬけとほり)て、鞍上(くらのうへ)に人なく、鞍下(くらのした)に馬なきの(かねあひ)自得(じとく)し、四技〈鞍、轡、鎧、鞭。〉三術(じゆつ)〈合節。知機。処分。〉(まなば)ずしておのづからその(めう)(いた)るべし。〕

〔すべて臍下の力のみを以て馬を自在に(うごか)す也。〕

〔この手綱(たづな)と、とる手をともにわするる也。〕

【巻下二十表】図

勁弓(つよきゆみ)(ひき)て、よく(あた)ることを()るの力は、臂腕(ひじうで)にあらず。指頭(ゆびのちから)にあらず。ただ身体(からだ)の正中なる、丹田の枢軸(しんぎ)より(はつ)せし一気を以て、(はなた)(さき)(まと)(つらぬ)くなり。(たう)の太宗の本心正しからざれば、脈理皆邪なりといへるは、いまだ(つくさ)さざるところあり。〕

〔これもまた、その胸肩臂指(むねかたひぢゆび)(きよ)にして、ただ臍下に気息(いき)をはりつめ、その心を以て(まと)にむかひ、()を以て()ることをいましむべし。〕

〔すべて、これらの()は、その(むね)をつくさざること多し。(みる)ものよろしく裁酌(さりゃく)すべし。〕

【巻下二十裏】

()(しゆ)にせざるは(みな)膚浅(うはべ)のことになりて、実用(じつよう)にたちがたし。(ゆえ)(こころざし)あらん(もの)は、よくよく此理(このり)体認(こころがく)べきことと、()(おもふ)なり。されと、百城(じやう)烟水(えんすい)たどりし(むかし)(ためし)すら、なほ参見(さんけん)善知識(ぜんちしき)をして、失利(しつぢ)慚惶(さんくわう)(そしり)(おは)しむれば今鳩洲翁(きうしうおう)(くう)中の機関(きくわん)自得(じとく)せし(せつ)の、()(むね)契合(かなひ)しを怡び、その善誘(みちびき)(より)て、

【巻下二一表】

疾苦(やまひ)()する捷径(ちかみち)()たるを、(すみやか)に人に(つげ)(しら)しめんとするも、またいかにぞやと(おもは)るるものから、一片(ぺん)老婆心(せわやきごころ)(やみ)がたくて、かく概略(あらまし)(しるす)ものならし。

養生訣巻之下〔終〕

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